タイ在住のフォトジャーナリスト後藤勝によるblogです。
2005年4月17日よりこちらで更新しています。
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reminders, I was there file#6 [2005年09月01日(木)]

不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。


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コロンビア バランカベルメッハ 1991年



「旅をしよう。一週間ぐらいだ。持つものは最小限でいい」
人権擁護団体職員のフリオがこう言い、翌日の早朝、小さなリュックを担いで待ち合わせの船着場に向かった。
「左翼ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)の支配地域に向かう。心配ない」
フリオが耳打ちし、それにうなずく。一時間ほどボートに乗り、小さな村に着いた。そこに案内人の男がいて、密林に隠していたボートでまた数時間川を上った。木々が切り倒された場所があり、ボートを止めると、小高い丘の上で少女がこちらを見ている。少女は何か合図を仲間に送ったようだ。「まだ写真を撮るな」と言われ、そこから山道を歩いた。

解放区と呼ばれる地域では、政府の力は及んでいない。丘の上ではコロンビア革命軍(FARC)の兵士たちの軍事訓練が行われているようで、掛け声がジャングルにこだましていた。まだ若い男女が銃を片手に、一列に並んでいた。なぜだか兵士たちもビデオを持っていて、僕を撮影し始める。崩れ落ちそうな小屋で数日間寝泊りし、毎日塩味の豆とライスを食べながら、軍事訓練を受ける兵士たちの姿をフィルムに写した。
「これが毎日の生活。今度会うときは、ネオンが輝く楽しい場所で会いましょう」
町に引き返す朝、これから軍事作戦に参加するという一人の少女が言った。


写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#6
Posted at 01:20 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

reminders, I was there file#5 [2005年07月25日(月)]
不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。


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コロンビア バランカベルメッハ 1991年



コロンビア最大の油田基地があるバランカベルメッハでは、労働組合 La USO(Union Sindical Obrera)が最も活発に活動していた。La USOは賃金値上げや政府の不正を告発していた為、多くの組合員が右派民兵の暗殺リストに載せられ、1990年だけで、組合員の35人以上が暗殺または行方不明になっていた。

バランカベルメッハで一人の組合員が誘拐され、数日後、頭を切断された遺体がマグダレーナ川で見つかった。翌日市内で大規模なデモがあり、デモには左翼ゲリラシンパの若者が多く参加し、市内のあちこちでバスを燃やし火炎瓶を武装した警官に投げつけた。

数人の死傷者を出し、デモが終わった。覆面をした若者が「着いて来い!」と言う。地元のテレビ局のカメラマンと共に、車に乗り込む。20分ほどでスラムの一角に着く。裏庭に通され、テレビの前で銃を持ったゲリラが演説をする。みな顔を隠すため、干してあった子供の衣類を顔に巻き、そして言った。
「Nosotros luchamos por asta la muerte!(俺たちは死を覚悟して闘う!)」

写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#5


Posted at 01:51 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

reminders, I was there file#4 [2005年07月23日(土)]
不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。

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コロンビア バランカベルメッハ 1991年


地元の人権擁護団体CREDOS(los Derechos Humanos)のオフィスは、バランカベルメッハのセントラルにある。暗い階段を上り、二階にある彼らのオフィスを訪ねた。入り口には、自動小銃を抱えた二人のDAS(大統領府治安局)の護衛がいて、「オラ!ボニータ!」と、しきりに外を通る女性に声をかけている。その一人に「チーノ(中国人)か?」と聞かれ、「ノー。エストイ ハポネス(いや、日本人だよ)」と答える。

所長のゴメズ氏に面会を申し込み、しばらくして奥の部屋に通された。がっしりとした体格のゴメズ氏に「この街で起きていることを写真に記録したい」と告げる。「君にも何が起こるかわからない。危険だ」という彼を、習いたてのスペイン語で説得をする。そして、「君もこの団体の一員として協力してくれるのなら。そして記録した写真を使わせてくれ」という条件付で、何とか了解を得た。

フリオという青年と共に活動することになった。翌日から眠る暇もないほど忙しい日々に追われた。虐殺があると、何日もかけて山道を歩き、その現場を記録した。誰から殺されたと聞くと、夜中でも飛び起きて現場に向かう。そしてオフィスでは毎日、家族を殺された人々が面会に来て、事情を聞く日々がつづいた。

ある日の夕暮れ、セントラル付近の飲み屋で、左翼ゲリラのシンパの若者5人が武装した右派民兵の襲撃を受けた。目撃者によると、一台の車から自動小銃を持った男たちが降り、店に入るなり、若者たちを一人ずつうつ伏せにした後、射殺していったという。近くに住んでいた犠牲者の家族が現場に着き、妻と娘が泣き叫びながら遺体に近づこうとする。警官が止めに入る。人々はその光景をじっと周りで眺めていた。

写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#4
Posted at 16:33 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

reminders, I was there file#3 [2005年07月22日(金)]
不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。

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コロンビア バランカベルメッハ 1991年


南米コロンビアのバランカベルメッハに行くことにしたのは、偶然ニューヨーク・タイムズ紙の記事を見たのがきっかけだった。「コロンビアで最も危険な街・バランカベルメッハ」という見出しで、この街では、ジャーナリストや人権擁護団体職員が暗殺の対象となり、すでに何人も殺されているという記事だった。

コロンビアでは当時、左翼ゲリラのコロンビア革命軍と国民解放軍、政府軍、そして右派民兵組織MAS(現在は右派民兵組織コロンビア自警連合軍)が入り乱れて争っていた。最も危険な町と呼ばれたバランカベルメッハ市は北部マグダレーナ・メディオ州の主要都市であり、同国最大の油田基地があり、付近の山岳地帯は麻薬原料になるコカの葉栽培にも適していた。
バランカベルメッハには七十年代以降、解放区から大量の難民が流れ込み、以来左翼ゲリラの拠点がスラムに作られ、以来農村地帯で続いていた右派民兵との争いは、八十年代後半から都市で展開されることになる。町で誘拐や虐殺が日常化し、子供も容赦なく殺された。人々はこの闘いを「Guerra Susia(汚い戦争)」と呼んでいた。

首都ボコタに着き、バランカベルメッハ行きの長距離バスに乗る。約15時間バスに乗り、昼過ぎバランカベルメッハのバスターミナルに着いた。「安宿を探している」という僕に、「中国人の食堂がある」と親切なタクシー運転手がそこまで連れて行ってくれた。食堂で中華系二世のエンリケと会い、近くの宿を紹介してもらった。一泊約5ドルほどの三階建ての宿から窓の外を見る。すでに夕方だった。どこからか陽気なサルサが流れていた。
シャワーを浴び、これからどうするべきかと考えていると、突然爆竹のような音が近くで響いた。慌ててカメラを持って外に出ようとすると、宿の従業員が「止めろ」という。何も考えずそれを振りきって外に出た。宿の前のレストランで、三人の男たちが血まみれになっている。人々が、次第に集まってきた。「La Violecia, La violencia」と年老いた女性がつぶやきながら死体を見ていた。バランカベルメッハに着いた、初めての日だった。

写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#3




Posted at 16:19 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

reminders, I was there file#2 [2005年07月20日(水)]
不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。

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エルサルバドル パルキン 1990年


写真を撮りながらオンボロバスでニカラグア国内を数ヶ月旅をし、その後内戦が続いていたエルサルバドルに向かった。目指すはFMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線)の解放区である。首都サンサルバドルの安宿で、ドイツ人とフランス人のフリーカメラマンと出会う。みな僕と同じで、金もなくコネもない。「ホンジュラス国境付近のパルキンにFMLNの最大の拠点がある」というので、そこに行くと言う僕にみな、「今はゲリラ側の許可はでない。それに危険すぎるからやめろ」と言う。しかし写真を撮りたい一心で中南米に来た僕には、諦めることが出来ず、一人でパルキンに向かうことにした。夜明け前、リュックを背負った僕を、人の良い安宿の主人が見送ってくれた。

ニカラグアで革命が成立したのは1979年7月、それを受けてエルサルバドルでも左翼ゲリラ活動が一層活発化した。80年10月には五つの極左ゲリラ組織がファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)を結成し、本格的な内戦に突入する。

サンサルバドルを出て数日後、政府軍の検問を何とか潜り抜け、パルキン付近の町に着く。そこでゲリラ司令官に許可を申し込む。
「無理だ」という司令官を、何日もかけて説得する。自分が高校をやめてその後肉体労働をしてお金を貯めてここに来たこと、そして「自分は写真を撮るために来た。なぜあなた達が闘うのか、それを知りたい」と言った。ある日、やっと、数日間だけ滞在許可をもらった。

昼間はひっそりとしたパルキンの町も、時折真夜中、政府軍の武装ヘリコプターが襲撃に来た。バタバタという気味の悪い音と共に、生まれて初めて鼓膜が破れるほどの銃声を聞く。無差別に打ち込まれた銃弾で、町のほどんどの家々が破壊されていた。

ある朝、周りのジャングルにゲリラ達と向かい、途中、獣道の物陰で見張りの少年兵と出会った。何も言わずに、するどい眼をして僕を見る。少年は、獣のような眼をしていた。

その後92年に政府とゲリラは和平に合意した。しかし10年以上に及ぶ内戦で7万5千人以上が犠牲となっている。

写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#2
Posted at 11:27 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

reminders, I was there file#1 [2005年07月17日(日)]
不定期連載 reminders, I was there更新開始。- 2000年にwebsiteで連載していたシリーズです。フォトジャーナリストとして歩み始めた頃の写真とともに、何故シャッターを切り、何故今もこの一枚を選ぶのか?を振り返ります。

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ニカラグア 1989年


1989年の末、メキシコからバスに乗り、中米を下った。エルサルバドルに着き、そして中米の最貧国と呼ばれるニカラグアを目指した。

ニカラグアでは1979年、反軍事独裁政権を掲げるサンディニスタ革命が社会主義政権を確立し、その後アメリカの支援を受けた軍事組織コントラとの間で内戦が続いていたが、1988年暫定停戦が成立していた。

ニカラグアの首都マナグアの景色は今でも忘れることができない。内戦と大地震で破壊され、ほとんどのビルが崩壊したままの状態だった。その瓦礫の隙間で人々が暮らしていた。

かろうじで建っていたビルの上から、「オラ!」と呼ぶ声が聞こえ、見上げると一人の少年がこちらを見ていた。上に上がって来な、と手招きをしている。薄暗い階段を上り、コンクリートがむき出しになった部屋には、少年と家族が暮らしていた。

翌年の1990年、親米のチャモロ政権が発足し、コントラは解体され、ニカラグアで内戦が終結した。

写真と文:後藤勝
reminders, I was there file#1

メモ

お知らせ
ラジオオンエアのお知らせ。 TOKYO FM 7/18 
AM7:40頃〜

7/18(月曜日)、TOKYO FMの「6Sense」内の「ダイレクトヒット」コーナーにおいて、「アチェの子どもたちとの写真プロジェクト」について後藤勝のインタビューがオンエアされる予定です。
スマトラ沖地震において活動した内容や、その狙いなど、10分間のコーナでお聴きになれます。

■TOKYO FM 6Sense

東京以外にお住まいの(海外の方も)、このサイト内にあるweb radioをクリックすると、ラジオを聴く事が出来ます。コーナー毎にCLICKして聴ける様になっています(仮に聞き逃してしまったとしても、後から、聴けるのでいいですね。)。因に、アチェのプロジェクトのお話は「ダイレクトヒット」朝7時40分からのオンエアです。

後藤勝は7/29-8/9まで横須賀、横浜でイベントに参加する為、帰国します。下記、1-4のそれぞれの会場に参加予定です。

ヨコスカ夏まつりHEY!!WA!!−それぞれの平和− 7/30(土)PM1:00-8: 00

■1特設ブースにおいて●
7月30日(土)午後1時から8時まで
祭り開催中に実行委員会企画のスペースにおいて
●リマインダーズプロジェクト関連資料配布
**当日配布予定の資料(pdf版)はこちらからダウンロード出来ます。下記、上映会に参加される方は是非、ダウンロードしてご利用下さい。
●関連書籍の販売
●寄付箱の設置(写真プロジェクトへの寄付)を行います。

■2野外上映会●
祭り内のイベントとして、午後6時30分〜8時の間の30 分間
後藤勝スライドトーク「inSightOut! - アチェの子どもたちとの写真プロジェクト」 @野外映画会


開催趣旨:
戦後60年経った今、私たちは日々の生活になんの不自由もなく平和に過ごしています。この平和は、かつての戦争で尊いいのちを失った方々の犠牲の上にあることを忘れてはいけません。私たちひとり一人が“いのちの尊さ”と“平和の大切さ”について考え、関心を持つことが大切だと考えます。よこすか夏祭り“HEY!!WA!!”−それぞれの平和−では、様々なイベントに参加していただき、その中で思い思いの“いのちの尊さ”“平和の大切さ” を感じていただくことを願っています。

ヨコスカ夏祭り“HEY!!WA!!”−それぞれの平和−
2005年7月30日(土)13時〜20時
横須賀市役所前公園
主催:“HEY!!WA!!”実行委員会
後援:横須賀市教育委員会
協賛:ヨコスカン
協力:YMCAよこすかコミュニティサポート
問い合わせ 090-9307-5794(広沢)
FAX:046-849-1694(三澤)

*********************************************
*2005AIDS文 化フォーラムin横浜と写真展
8/2(火)〜8/7(日)

■3スライドトーク●
2005AIDS文化フォーラムin横浜
8月6日(土)午後4時から6時まで
後藤勝スライドトーク「絶望のなかのほほえみ」

■4写真展●
写真展 Urgent Action Needed - カンボジアのエイズ 
後藤勝 開催決定!
@2005AIDS文化フォーラムin横浜
日時:8月2日(火)〜8月7日(日)
注※写真展は2日から開催しています。
場所:神奈川県民センター1階展示スペース
AIDS文化フォーラムin横浜

開催趣旨:
1994年、エイズ国際会議を契機にはじまった、市民による「AIDS文化フォーラムin横浜」。”文化”の2文字、それはフォーラムが医療や福祉の問題だけでなく、すべての人間が、HIV/AIDSに関わりを持ちながら、日常の生活・社会的活動を行っているという側面を大切にしたいから....。フォーラムは、今年も、教育、医療、看護、女性、薬害、 PLWHA、人権、社会問題、セクシュアリティ、国際 etc... 多くの社会的課題を考える場となります。

テーマ:「つながる空間」
期間:2005年8月5日(金)〜7日(日)
場所:かながわ県民センター(横浜駅西口徒歩5分) >>地図
主催:AIDS文化フォーラムin横浜 組織委員会
企画運営:AIDS文化フォーラムin横浜 運営委員会
事務局:横浜YMCA
共催:神奈川県
後援:横浜市、川崎市、相模原市、(財)エイズ予防財団、 第7回アジア太平洋地域エイズ国際会議組織委員会
横浜商工会議所エイズ問題対策懇談会、横須賀市(予定)

横浜YMCA 
AIDS文化フォーラム 担当:郡司 大江
〒231-8458 横浜市中区常盤町1-7
Tel:045-662-3721 Fax:045- 651-0169
E-Mail:abf2005@yokohama- ymca.or.jp
Posted at 22:29 | reminders, I was there | この記事のURL | Clip!!

inSightOut! - アチェの子どもたちとの写真プロジェクト 毎日更新中 [2005年06月28日(火)]
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※転送・転載歓迎
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昨年12月のスマトラ沖大地震・インド洋大津波、あれから6ヶ月が経ちまし た。
今、深刻な被害を受けたアチェとタイで子どもたちが参加するメディアトレーニングプロジェクト[inSight Out!]を立ち上げ、実活動前の調整中です。
このプロジェクトの原案は今年2,3月にリマインダーズプロジェクトと AJA projectによって行ったアチェでのワークショップから発展したものです。
被災後の様子、このプロジェクトの事、それを支えている13人の子ども たちや現地のスタッフを写真とともにご紹介していきます。
[アー カイブを残しませんので日々こちら のページでご覧下さい]
http://reminders-project.org/

震災後の現状、家族を目の前で失った子供達の姿や背景。未曾有の経験から、「生きる」という形で残された彼らが、「なにかしなければ」とカメラを手に取り、 「何を伝えるべきか」を考え、撮影していました。彼らが捉えた現実をより多くの方達に知って頂ける機会になると思います。是非とも、多くの方にご覧頂くための機会作りにご参加下さい。inSightOut!のスライドショー作品は7/30「ヨコスカ夏まつりHEY!!WA!!−それぞれの平和−」にてスライドトーク上映を予定しています。

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[新]写真展 Urgent Action Needed - カンボジアのエイズ 後藤勝 開催決定!
@2005AIDS文化フォーラムin横浜
日時:8月2日(火)〜8月7日(日)
場所:神奈川県民センター1階展示スペース
AIDS文化フォーラムin横浜
http://www.yokohamaymca.org/AIDS/

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Posted at 10:09 | この記事のURL | Clip!!

来日する事になりました。 [2005年06月28日(火)]
来る下記日程で、来日する事になりました。
横須賀での「ヨコスカ夏まつりHEY!!WA!!−それぞれの平和−」の参加と、横浜での「2005 AIDS文化フォーラムin横浜」に参加する為です。
参加イベントについては追ってこれから情報をお送りして行きますので暫しお待ち下さい。

7/29(金)来日
7/30(土)午後 横須賀 平和イベント
8/ 1(月)写真展示設営(かながわ県民センター1階展示スペース)
8/ 2(火)〜7(日)写真展示(同上)
※2−4(5−7:AIDS文化フォーラム)
8/9(月) 帰国

本日は来日決定のお知らせまで。
イベント期間中にお会い出来るのを楽しみにしています。
Posted at 10:04 | この記事のURL | Clip!!

これだけの理由 [2005年06月24日(金)]
つい最近、カンボジアのシエムリアップで人質事件があった。犯人はインターナショナル・スクールに立てこもって、子供たちの解放と引き換えに千ドルを要求した。しかし事件発生から半日後、警察の特殊部隊が突入し、犯人はあっけなく逮捕される。銃撃戦が始まり犯人の一人は動揺したのだろう、泣き叫ぶカナダ人の子供の頭を拳銃で撃ちぬいた。

覆面をした犯人はすべて20代の若者だった。貧しい地方からの出稼ぎ組で、以前は首都プノンペンの警備会社に勤めていたという。中心人物の一人はシエムリアップに来て、土産物屋を経営する韓国人のドライバーをしていたが、ある日遅刻して雇い主に二度平手打ちをされる。
「頭にきた。韓国人の子供を誘拐して金を奪おうと思った」
事件を起こすきっかけは、たったこれだけの理由である。

シエムリアップは以前とても静かな町だった。アンコールワットへ続く一本道は静まり返り、周りに広がる田畑には、水牛がのんびりと戯れているのどかな風景が続いていた。しかし今は凄まじい変わりようである。外国からの資本で巨大ホテルが所狭しと建設され、観光収入は巨大な額に及んでいる。しかしそれも、地元の発展に繋がっていない。町から数キロ離れている村に行くと、電気も水道も未だに設備されておらず、子供たちも満足な教育は受けることができずにいる。そして町に仕事に出る若者たちが増え、農村では急激に過疎化が進んでいるのが現状だ。

エイズや人身売買などの取材を続けているが、カンボジアの内戦後の社会の歪みは酷いものだと感じる。学歴があってもコネがないと仕事につけず、字も読めない地方出身者たちは都市に出てきて途方にくれる。どんなに貧しくても、銃を使って金を奪うという行為は容易に出来るものではない。しかし若者たちは、高級車を乗り回して贅沢をする人々を目の当たりにし、現実をどうすることも出来ない自身に絶望し、そしてある日、ぷつっと糸が切れてしまったのだろう。

メディアはこの事件の裏に、政治的な意味合いがあるのではないかと当初憶測していたが、結局雇い主に対する恨みと少しばかりの身代金目当ての事件であった。この事件は、カンボジアが抱える問題を浮き彫りにした。

オイガ! エスクチャメ プレンサ=後藤 勝
Posted at 03:17 | この記事のURL | Clip!!

Cambodia 6 years of Stories/ジェリ・レッドファーン [2005年04月23日(土)]
「見る機会」第二部作品参加者: #6
Cambodia 6 years of Stories/ジェリ・レッドファーン
文:後藤勝

サフランシスコで通信社のストリンガーをしていたジェリー・レッドファーンは、1998年1月にカンボジアの首都プノンペンに向かう。内戦が終結した直後のカンボジアは混乱が続き、ジェリーは愛用のニコンで苦悩する人々を記録する。カンボジアで生まれたばかりの民主主義は安定せず、総選挙後には暴動が起きた。彼はカメラでそれらを記録し、それら一連の作品には武装した警官が"Democracy Square"と書かれた立て看板をなぎ倒し、ライフル銃の実弾に倒れた学生たちの姿があり、負傷した僧侶たちの悲しい目が写っている。

その後彼は、記者である妻のカレンと共に、地元の英字新聞カンボジア・デイリーで働き始めた。一度アメリカに帰国した後、カンボジアを記録し続けていたいという思いから、彼らは2002年にもう一度プノンペンで暮らしはじめる。現在はタイのチェンマイをベースとしているが、数ヶ月に一度はカンボジアを訪れている。
そして先月、カレン著、ジェリーの写真による"Cambodia Now"という題名の本を出版した。

スライドショーは"Cambodia 1998-2004"とタイトルがつけられている。地雷で傷ついた人々の姿があり、シンナーを吸って物乞いをする子供たちもいる。アメリカ育ちのDJがクラブに出現し、若者たちは狂ったように踊り明かしている。貧富の差やエイズ問題も見られる。
ジェリーは言う。「カンボジアには、まだ真の平和が訪れてはいない」
現在、ニューヨークタイムズ紙、タイムアジア、ニューズウィークなどに写真を発表しながら、東チモール、スリランカやラオスで、紛争が民衆に及ぼす影響をテーマに自身のプロジェクトを続けている。

*Jerry Redfern関連ページ
http://www.redcoates.net
Posted at 23:47 | 見る機会 | この記事のURL | Clip!!

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